会合先の新横浜駅を出発し、3月10日22時過ぎに最終電車で気仙沼に到着しました。翌日の予定がキャンセルになり急遽決めたため、宿はありませんでした。2時間程がれきの中を歩いて、港沿いに見つけた気仙沼横町という屋台村のショットバーで地元の人たちのお話に耳を傾けて朝を待つ事にしました。
気仙沼は、私の大好きだった祖母の生まれ育った地。大好きな東北の中でも特に思い入れのある場所の一つです。気仙沼に来た理由は、3月11日という東北の方々だけではなく、日本にとって非常に重要な日を、「自分の中で」風化させたくないという思いがあったからです。
震災より丁度1年ということもあり、同世代の地元の方々から当時のお話を色々伺う事ができました。多くの親戚・友人・知人が目の前で亡くなっていく中、生き残った人たちから語られるお話は、ただただそう言うものなのかと聞き入るばかり、しかし真に迫るものがありました。
最も印象に残った言葉は「誰が死んでもおかしくなかった」ということ。
●2011年3月11日14時46分
2011年3月11日14時46分、皆さんは何をしていたでしょうか。
私は神奈川県庁の7階の控え室で、執務にあたっていました。ゆっくりとした横揺れが始まり、段々と揺れが強くなり、庁舎がどうにかなってしまうのではないかと思われるくらいでした。船酔いにも似たような感覚を持ちました。このような揺れは初めてであり、命の危険を感じたのを覚えています。
昭和40年代に建てられた新庁舎は耐震基準を満たしておらず、外に出る方が安全だろうという同僚との判断の下、庁舎外に出ました。しかし、庁舎自体にひびが入っており、余震で外壁が落ちてくるのを目の当たりにして、庁舎の側にいる事自体が危険であると感じられ、横浜スタジアムの横にある広場に移動しました。広場では多くの人で溢れ返り、尋常ではない様子がよくわかりました。
交通は混乱し、普段30分で帰れるような場所でも何時間もかかっていました。私は家に帰らず、控え室で一晩を明かしました。その時にはこの地震が1万人以上の犠牲者を出し、原発による死の海が広がる事等思いもよりませんでした。
●何を思うか
あの震災を思い出して皆さんは何を思うでしょうか?
私は自分が五体満足で生きていられる事の尊さを感じます。
津波の残酷さは、生死の境がはっきりしている事です。ほんの数メートルしか離れていない場所であっても、高台にいるか否かで高台にいる人は目の前で流れていく人たちをなす術もなく見守らなければなりません。つまり、人の生死の境などは、自然のほんのいたずらで左右されてしまう程、はかないものである事を思い知らされるのです。
取り返しがつかない事への無念さを感じます。
原発事故による放射能汚染が現実のものとなりました。私達は様々な物事を軽く考え過ぎていたのかもしれません。汚染で失われた国土だけではなく、その中の思い出を取り戻すためには、私達のライフスパンでは足りない時間が必要です。そして、それが拡大する可能性はまだゼロではありません。津波や地震でなくなった街は再興できますが、放射能で汚染された街は再興自体が困難です。
もっともっと私達には色々な可能性があり、色々な事に挑戦するべきという前向きな気持ちをさらを持ちました。
犠牲者の中には老若男女様々な方がいました。3月11日14時46分にたまたまいた場所によって、尊い命が失われました。死んでしまえば可能性は全てがなくなります。でも、生き残った私達にはこの先の未来をいかようにも切り開いていける可能性もありますし、挑戦する選択も出来ます。後ろ向きでいるよりは、行動をする事で今の現状をよりよくしていく事が出来ます。
●死んだつもりでやれば
現在、首都圏の人たちは震災以前となんら変わらない生活を送る事ができています。もう震災の事等過去の事ことになっているかのようです。もちろん、被災していないのだからいつまでも震災の事ばかり見ていることもできないでしょうし、過去の事として整理をつけていく作業も行っていく必要もあるでしょう。
でも、立ち止まって考えてみると、あの震災はこの日本国がつぶれてもおかしくなかった出来事です。少なくとも私はそう思っています。従って、人ごとと感じる事はできません。目の前に津波は来なかったかもしれませんが、原発の脅威は目の前で起こっています。やはり間一髪で被災を免れたと思っているべきなのではないかと思います。
原発がもっと大きな爆発を起こし、北風にのって放射能がやってきていたら首都圏は死の海になっていたでしょう。自然の気まぐれで震源が数百キロずれていたら(地球規模で考えれば単なる誤差の範囲)、同じように首都機能は崩壊していたでしょう。そうなれば、私達日本人は生きている事も叶わなかったかもしれないですし、生き残った人たちも今のような生活を送る事は決してできなかったでしょう。これは何も非現実的なことではなく、そういった状況と紙一重の状況に私達はいたのです。
「たられば」を言えばキリがないですが、誤解を恐れずに言えば、残された私達は一度死んだつもりになって、もっともっと自分たちの可能性を信じて、私達そして日本や世界の人々にとってよりより未来を切り開く挑戦をしていくことが、亡くなった人たちに対する最大の追悼になるのではないかと私は信じています。
●墓前
午前3時過ぎにショットバーを出ると粉雪が舞ってきました。誰もいない被災地のがれきの中を再び歩き始めると、自分自身の抱えている様々な悩みもちっぽけに思えると同時に、大好きだった祖母の事が自然と思い出されました。ショットバーで交わされていた東北弁の会話が、生まれてから20代まで一緒に暮らして来た祖母の言葉に感じられたからかもしれません。
日の昇る気仙沼の街を後にして、岩手県一ノ関市内の小高い山にある菅原家のお墓に向かいました。日本国中が心を一つにする瞬間、私は祖母の墓前で黙祷を捧げました。新しい価値観の下、素晴らしい世界を創る挑戦を続ける事を誓いながら。
メールマガジン(携帯版・PC版)を発行しています。以上の文章は、メルマガ「カエル通信」からの抜粋です。
登録はこちらから。